デジタルなんていらない?

 こういう仕事(IT学習支援)をしていて、よく先生たち(特に「ベテラン」の)から聞くのは、「PCとかタブレットとか、日本語の授業には必要ないんじゃない?」という意見です。その理由は「紙の教科書のほうがすぐれているから」というもの。「だって、デジタルは電気がないと使えないし、落としたりしたら壊れるし、準備に時間がかかるし」・・・ごもっともです。「紙のテキストにいろいろ書き込むから覚えられるのよ」・・・うん、そうですね。しかし、紙かデジタルか、どちらかを選ぶ必要があるんでしょうか?

 私たちの生活の中で、実際に「紙」を使う場面はまだたくさんあります。しかし、日常生活の多くの活動が、すでにデジタルに取って代わられていませんか?大学で教えている人なら、予算、シラバス作成、履修登録や成績処理、さらに毎年やってくる科研申請など、仕事の多くがデジタル(あるいはファイルのやりとり)で行われていることに気がつくでしょう。それより何より、論文検索も今やほとんどPDFファイル探しになっています。

 だから、「紙かデジタルか」という問い自体ナンセンスなんです。必要な場面で必要な道具を使う、それが一番いい方法です。では、デジタルが必要となる場面とはどんな場面なんでしょう?何のことはない、それは日常生活の中にあります、特に学生の。

 私たちが日々出会い、向かい合っている学生さんたちは、いつでも「最新型」です。毎年1年生は18歳。そして、彼らの記憶には多くても過去17年間のことしかありません。もうすぐフリップ型の携帯(パカっと開くやつ)をみたことのない学生が入学してくるでしょう。

 彼らの今の生活はどんなものでしょうか。友達とはLINEで連絡しあい、いつでもつながっています(メールは読みません)。最新の情報はtwitterで探し、辞書も携帯です。実際、「授業中スマホを見るな」と言う先生がいて困る、という学生の訴えを聞くことがよくあります。辞書が引けないからです。

 私たち(私です)は、若いつもりが、気がつけばもういい歳になっています。若い人たちを相手にするには、もちろん経験も大切ですが、彼らのニーズに気がつくだけの柔軟性を保ち続ける努力が必要なんじゃないでしょうか?つまり、必要性を決めるのは、私たちではなく「彼ら」なのです。

 話がそれましたが、デジタルと紙(や伝統的な媒体)をうまく組み合わせれば、もっと効率的に日本語学習ができるようになると思います。たとえば、「漢字を覚えるのには手書き練習が一番」という意見があります。しかし、紙に書かせて困るのは、たまにしか合わない学生の練習チェックをどうするかです。

 そういうとき、簡単に「写真とって送って」といえば、いつでもやりとりできて、チェックもできます。 

 私は、作文の授業では、学生たちとEvernoteというアプリのNoteを共有し、そこに写真を投稿してもらうことで手書きの作文を処理しています(一クラス40人いるので授業中にはチェックできません)。さらにTAさんとも共有して仕事を分担しています。こういうことができるのもEvernoteのおかげです。